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日々試行錯誤しつつ実践中

学ぶ力はどう培うのか2――足場を外したあとに、教員は何をするのか

先日の記事の続きとして、考えたことをメモしておきたいと思います。

 

arukutech.hatenablog.com

 

子どもたちが学ぶ力を身につけていくとき、教員は何を支えればよいのでしょうか。今、特に気になっているのは、「足場がけをどう外すか」、そして「子どもに任せることと放任はどう違うのか」ということです。

 

教員が細かく道筋を示さず、子どもたちが立ち止まったり、迷ったりしている授業は、一見すると「放任」に見えるかもしれません。しかし、その中には、教員が意図して足場を外し、子どもたちが自分で考え、試している時間もあるのではないでしょうか。試行錯誤をする機会がなければ、自ら学ぶ力を育てることも難しいと思うのです。

 

このことを考えるとき、私は、臨床心理学者カール・ロジャーズの考えが頭に浮かびます。ロジャーズは、人の変化を支える関係において、援助者の「自己一致」「無条件の肯定的関心」「共感的理解」を重視しました。

 

授業にそのまま当てはめることはできませんが、子どもの考えや迷いを受け止めることには、通じるところがあるように思います。間違えても、その子自身の価値まで否定されない。「分からない」と言っても、考えの途中を話しても大丈夫。そう感じられる関係の中で、子どもは少しずつ自分の考えを表に出し、試してみようとするのかもしれません。

 

ただ、安心できる環境を整えたからといって、子どもがすぐに動き始めるとは限りません。

 

「自分で考えていいよ」

「方法は自分たちで選んでいいよ」

と伝えられても、最初は戸惑うでしょう。

 

何をすればよいか分からず、教員の指示を待つこともあります。その姿を見てすぐに「やはり任せられない」と判断し、教員が道筋を示してしまったら、子どもが自分で一歩を踏み出す機会を失うかもしれません。

 

だからといって、ただ待っていればよいわけでもありません。学習目標や基礎知識、考えるに値する問いは必要です。子どもが何に困っているのかを見取り、必要なときには支える。そのうえで、子ども自身が考え、試すための時間を残すことが大切なのだと思います。

 

基礎知識は、考えるための材料になる。問いや適度な困難は、思考を動かすきっかけになる。心理的な安心は、失敗しても考え直せる土台になる。そして、教員がすぐに答えを渡さずに待つ時間は、子どもが学びの主体になるための猶予になる。

 

どこまで支え、いつ足場を外し、どの場面で再び手を差し伸べるのか。学校や教室、子どもによって、その答えは違うはずです。だからこそ、子どもたちの試行錯誤を見守りながら、一人ひとりの学びを見取る教員の働きが問われるのだと思います。

続きはまた後日。

三者面談週間が始まりました

今週は秋休みです。この期間に、三者面談を行っています。

三者面談の主役は、もちろん子どもたちです。

そして、面談で一番話すのも子どもたちです。

4月からの前期の間に学んだことを、自分の言葉で保護者の方にプレゼンします。私たち教員も質問をしますが、子どもたちが考えを伝えるのを助けるための問いかけが中心です。

探究学習を通して何を学び、教科を超えてどんなことに気づき、考えを深めたのか。各教科では、どのような知識を身につけたのか。どんなATLスキル(学習のためのスキル)を使い、国際バカロレアの学習者としてどのような姿を見せたのか。一人ひとりが、具体的な学びを振り返りながら話します。

保護者の方にとっても、プログレスレポートのコメントや評価だけでは伝わりきらない成長を、子ども自身の言葉から感じていただける時間になっています。

子どもたちは、最初は緊張した面持ちで教室にやってきます。それでも話し始めると、予定の時間を超えてプレゼンを続ける子ばかりです。最後には保護者の方からも質問やフィードバックをいただき、子どもたち自身が答えます。

自分の学びを振り返り、大切な人に伝える経験を経て、後期にはどんな姿を見せてくれるでしょうか。今から楽しみです。

中等部・高等部(IBDP)を見学しました。

 今日は、機会をいただき、中等部と高等部の授業を見学させていただきました。高等部は、現在IBDPの認定校となっています。

 どちらの授業でも印象に残ったのは、生徒たちが主体的に学ぶ姿です。以前担任した子どもたちも、それぞれの場所で元気に学び、成長していました。その姿を間近で見ることができ、とても頼もしく感じました。

 今年は6年生の担任として、保護者の方から進学について質問を受ける機会が、今後ますます増えていくと思います。そこで、案内してくださった先生から、実際の授業や学校生活の様子、小学校のIBPYPとの違いなどについて話を伺いました。

 興味深かったのは、生徒たちが自分たちで学習を進めている時間には、授業中であっても授業者の先生と話ができたことです。それだけ、生徒が自立して学ぶことのできる環境がつくられているのだと感じました。

 これまで話には聞いていた、IBDPにおけるハイヤーレベルとスタンダードレベルの違いについても、実際の授業を見ながら説明を聞くことができました。特にハイヤーレベルの授業を目の前で見ることで、その学習の深さや求められる力を、より具体的に捉えることができました。

 資料や説明から得られる理解と、実際の教室で授業や生徒たちの姿を見ることで得られる理解は、やはり違います。今回の見学を、保護者の方への進学案内だけでなく、子どもたちがその先の学びへとつながっていくために、小学校段階で何を大切に育てていくのかを考える機会にもしていきたいと思います。

学ぶ力はどう培うのか

学ぶ力はどう培うのか

 教員が、子どもにとって学びやすい道筋を丁寧に整えることについて、最近考える機会が何度かありました。

 

 資料を用意する。考える視点を示す。問いを小さく分ける。活動の手順を分かりやすくする。こうした「足場かけ」によって、子どもは安心して学習に取り組むことができます。

 けれども、道筋を整えれば整えるほど、子どもが「どうすればよいのだろう」と立ち止まり、自分で方法を探す機会は少なくならないでしょうか。

 もちろん、子どもをただ困らせればよいわけではありません。難しすぎて、何をすればよいのか分からない状態が続けば、考えるよりも先に諦めてしまいます。

 しかし、考える力が育つためには、ある程度の「困る経験」も必要なのではないかと思います。

 今もっている知識や方法だけでは、すぐに答えが見つからない。だから、これまでに学んだことを組み合わせたり、資料を調べたり、友達の考えを聞いたりする。一度出した答えがうまくいかなければ、考え直して別の方法を試してみる。そのような試行錯誤の中で、知識は単に「知っているもの」から、「考えるために使えるもの」へと変わっていくのではないでしょうか。

知識があれば、考える力は育つのか

 考えるためには、基礎となる知識が必要です。何も知らない状態から、深く考えることはできません。

 では、十分な知識を身につければ、それだけで考える力も自然に育つのでしょうか。

 私は、知識は考えるための大切な材料ではあっても、それだけでは十分ではないように思います。

 どの知識を選ぶのか。
 知識と知識を、どのようにつなぐのか。
 目の前の問題を解決するために、どのように使うのか。

 こうした経験がなければ、「知っている」ことと「考えられる」ことの間には、距離が残ります。

 子どもが自分で考えるためには、

「なぜ、これを考える必要があるのか」

という学びの必然性と、

「すぐには分からないけれど、何かを使えば前に進めそうだ」

という適度な困難、そして、

「自分なりに試してみてもよい」

と思える時間と余地が必要なのではないでしょうか。

足場をかけるということ

 そこで難しくなるのが、教員による足場かけです。

 足場かけは、子どもが正しい答えへ迷わず進むために、教員が道筋をすべて示すことではないはずです。本来は、子どもが自分で考え続けるための、一時的な支えです。

 足場が少なすぎれば、子どもは途方に暮れてしまう。
 けれども、足場が多すぎれば、自分で考える必要がなくなって受け身になってしまう。

 大切なのは、子どもが「分からない」で止まってしまわず、それでいて、教員の示した手順をなぞるだけにもならない支え方なのでしょう。

 どこまで支え、どこから子どもに委ねるのか。
 いつ助け、いつ待つのか。
 そして、肝心なのは、かけた足場を、いつ、どのように外していくのか。

 この「外す」過程では、教員は子どもの成長を待ったり、必要な混沌を受容したりすることが求められるのかもしれません。

 子どもを「うまく学習させる」ことだけでなく、やがて教員の支えがなくても学べるようにすること。その両方を見据えながら足場かけを考えることが、学ぶ力を育てることにつながるのだと思います。またこれは教員だけで実現するのではなく、教員が学習集団を支え続けることで実現するのが、一番現実的だとも思います。

大人も、協働的に学ぶ

授業では、協働的に学ぶことが、これまで以上に大切にされてきています。
誰かがいつも教え、誰かがいつも教えられるのではなく、それぞれが持っているものを出し合いながら学んでいく。それは大人でも同じだと思います。
この夏、いろいろな学びの場に参加をさせていただいています。
その一つとして、オンラインで小さな勉強会もさせていただいています。そこでは、私の学びのためにアウトプットさせていただく(話題を提供する)こともありますが、私が一方的に話す側になる会にしたいわけではありません。
参加してくださる方々からの問いから気づきや学びいただくこと、参加している方が関心のあることについて話題提供をしてくださることもあります。
先日は、大先輩の方々とのランチで教員としての生き方を感じさせていただきました。また、先駆者の方々の話を伺う機会にも恵まれました。そのどちらでも、私の話も丁寧に聞いてくださったり、私からの質問に対して丁寧な回答をいただいたりしました。双方向の学びや協働的な学びの良さを実感させていただきました。
ところで。私は自分よりかなり若い、我が子達と同じくらいの先生方と一緒に仕事をすることも増えてきました。だからといって、私が「指導する側」だとはあまり考えていません。
若い先生の方が詳しいことや、よく気付くこともたくさんあります。
授業について話していて、「その方法は思いつかなかった」と感じることもよくあります。
どちらかがアイディアを出す。
相手がそれを少し変える。
そこにまた別の考えを足す。
そうやってやりとりしているうちに、一人で考えていた授業より、ずっと面白いものになることがあります。
考えてみれば、授業でも子どもたちに同じことを求めています。
「自分の考えを伝えよう」
「友達の考えを聞こう」
「違う考えから学ぼう」
「一緒に考えることで、最初の考えをよりよくしていこう」
それならば、大人である私たちも同じで、
経験年数が長い人が、いつも教える人になる必要はない。
経験年数が短い人が、いつも教えてもらう人になる必要もない。
そして、ときには誰も答えを持っていなくて、一緒に考える。
そんな関係が、私にとっての心地よい学びであり、距離感であり、そして「協働する」ということなのだと思います。
こう考えるのには、私のこれまでの経験もあると思います。私は何度か転職をしています。業種・専門を変えたこともあります。新しい世界に入れば、そこでは一旦初心者ということになります。
そんな中で、「初心者との関わり方」にも人によってずいぶん違いがあることに気づきました。
来たばかりの私の考えや話もきちんと聞いて受け止めてくれる人がいるのです。
「どう思いますか?」
「どうやってそれ考えたの?」
いつの間にか「教える人」と「教えられる人」という関係にだけでなく、「一緒に考える人」へと関係が変わっていくように思います。私は、その変化がとても好きだったのだなと気付きました。
もちろん、教えてもらえることは有り難い。
自分の経験を伝えられることも有り難い。
私は一緒に学ぶ仲間に対して、その両方を自然に行き来できる関係でいたいなと思います。