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『学び合い』の子ども観・先生観(みんなで取り組む『学び合い』入門 第二章の感想)

みんなで取り組む『学び合い』入門 (THE教師力ハンドブック)(西川純先生 著)の第2章を読んでの感想です。1つ前の記事の続きです。

第2章「悩みも迷いも受け止めて!子どもとの接し方」

『学び合い』が上手くいかなくなったときのチェックポイントや対処の仕方、子どもが悩みを訴えたときやクラスの雰囲気が悪いときの対応の仕方や考え方などについて書かれています。

感想:『学び合い』の子ども観・先生観についての章

 先生が子どもをどう捉えるか、そして先生が自分自身をどう捉えるか。

そして子ども観として、個から集団へのシフトの提案。

 

子ども観

子ども一人一人を「個」として見るのか、子どもの「集団」として見るのかの違いを知りました。

仕事をしていれば誰でも、常に判断をしていると思います。特に、教える立場の場合は自身や相手に対して「OK」か「NG」かの判断をしていることがもしかしたら多いのかもしれません。(判断すること自体を決して否定するわけではありません。)

先生が子ども一人ひとりに対して、「できている・できていない」かを気にかけ判断しているとき、「できている」=「OK!」、「できていない」=「NG!」となりがちであることは事実だと思います。

判断する対象を子ども一人ひとりではなく子どもの「集団」とした場合、判断の結果は集団として「できている」のか「できていないのか」になります。

集団として判断される場合の方が、子ども一人一人にそれぞれ個性に合った役割が生まれるということではないかと。

すると、子どもの多様性がより認められ、活かされます。他者との小さな違いで「できていない」=「NG」と責められることは減り、個性が生きるでしょう。

結果としてひとりひとりに優しい環境になるのかもしれません。

なぜなら、個であっても集団であっても、判断をしているのが一人の先生という「個」の価値観だからです。

先生観

子どもは集団ですが、教える先生は「一人」です。

先にも書きましたが、先生一人の価値観が、生徒一人ひとりにOK・NGを出す場合。そして集団に対してOK・NGを出す場合。比べるとOK・NGの判断の基準が異なると思います。

集団としての成長を求め続けることは、一見厳しい要求にも思えます。繰り返しになってしまいますが、判断基準を集団にもってくることで、子ども一人ひとりにとっては「優しい」ことなのだと思いました。

また、子どもの主体性から考えても、先生との一対一の関係に近い状態よりも、集団の中での在り方を考え模索する状態の方が、より主体的に生活できるのではとも感じました。

ひとりひとりの尊厳を守ること

先生、子ども、それぞれの役割はある一方で、どんな役割同士も対等(フラット)である印象を受けました。もしかしたら個人としての尊厳が守られるということなのかもしれません。ただ、まだまだ私自身の理解というのか実感が浅くうまく言葉には出来ません。具体的にどうすればいいのかもまだ掴めてはいないと思います。

また、「チーム学校」という考えを生徒指導の授業(通信制大学・教育学科)で習いましたが、その意義を再認識することもできました。

 

振り返ると、私自身、反省することがあれこれ思い浮かびます・・・

個であっても集団であっても、誰もが未完成で不完全な存在ですよね。